涅槃会に向けて
2019年02月06日 水曜日
お釈迦さまは、80歳の年に生活の地であった王舎城を出て生まれ故郷のカピラバストに向かう決意をされ旅立ったとあります。その距離は200km以上になります。それを歩いて向かったのでした。しかし、生まれ故郷のカピラバストは隣国のコーサラ国によって既に滅ぼされていました。それでも、故郷に向かったのはなぜだったのでしょうか。
松原哲明氏は“遥かなる東へ”の中で「仏陀は西へ西へと向かっていった。パータリプトラ城を出、ガンジス河を渡り、ヴァイシャーリー城を去ったあたりから、痛みがブッダの背中を襲いはじめたのである。やがて、歩行が困難になってきた。それでも、西へと歩いていく。パーヴァー村で、鍛冶工のチュンダから接待を受けたブッダは、中毒になった。激しい下痢と腹痛をおして西へと向かっていき、ついにクシナガラの沙羅双樹の林の中で倒れた。阿難に「頭を北に、顔を西に」と命じて。その時はすでに自身で自分の身体を動かすこともできなかったことを知る。全身全霊を使い切っても西に行きたかったのは、なぜか。~(中略)~あと、百キロ弱で、母の眠るラーマ村があるのだ。ブッダはラーマに一生を納めたかったのか。」とその理由を綴っていました。お釈迦さまの母親に対する思いは、「父の葬儀に参列し、帰路、ラーマ村の母の墓に立ち寄り、墓前で母に語りかけた」との記述から、直接に母親の愛にふれていなくても、母の深い愛に包まれていることを感じていたのではないかと思わせていただきました。
数限りない多くの人を救ってきたお釈迦さまが最後の地に母親の眠る場所に定めたところに人としての生き方を、生きる力の源を教えていただきました。
保育指針に『幼児期の終わりまでに育ってほしい姿』を子どもたちに育んでいただくことを通して、その根底には自分自身がこの世に生をいただいたことへの感謝と喜びがどうであるかが、問われているのだと思わせていただきました。
副園長 田中
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