いのちを見ている子
2018年08月08日 水曜日
園では水槽にヒフキアイゴ、カクレクマノミ、コバルトスズメ、ルリヤッコス、カンクシュリンプなど様々な魚を飼っています。
先日一匹のおさかなが水槽の底に横になっていました。気が付いた園児がそばにいた保育士にすぐ知らせてくれました。丁寧におさかなを水槽からすくい上げました。いつも小さな生き物のいのちが終えたときには庭に小さなお墓を作ります。今回も、園児は保育士と一緒におさかなの供養をしてくれました。「おさかなさん天国に行けますように!」と小さな手を合わせ祈りをささげてくれました。なんて優しい子なんだろうと思いました。
さかなは、スーパーに並んでいるサンマやイワシ、サバ、タイにカレイはおさかなではなく、お魚です。釣り上げてから冷凍、冷蔵保存され店頭に並んでいます。それを新鮮なうちに調理して食しています。
保育園の水槽にいたおさかなと店頭に並んだお魚は、同じ魚です。園の水槽のおさかなは死んでいるのを見ると何となく、じかに手を触れるのが怖い感じがします。しかし店頭に並んだ魚は氷づけされているのを見て“新鮮”と見えます。当然、家に帰ってからまな板で調理します。
大きな割烹屋に行くと生簀で泳いでいる魚を見ると“活きがいね!”といいます。その生簀から取った魚を刺身でいただくと本当においしく感じます。
何が違うのだろうと自問しました。見ている視点が違いました。園の水槽のおさかなは「同じいのちを生きているおさかな」です。だから、いのちが亡くなるから悲しい、切ないという感情がわいてきます。いのちを失ったおさかなに触れるのは抵抗があります。しかし、店頭の魚は「食する」視点から見ています。自分の口に入るものだから、“新鮮”という言葉が頭に浮かんでいきます。
子どもでも大人でも他者への暴力が行われることがあります。身近な環境の中で行われる暴力を、どういうわけか“いじめ”と呼んでいます。この暴力がなぜ行われるのか、いろいろあると思いますがこの“おさかな”と“魚”の違いと同じような気がします。相手に“いのち”をみているか、“自分と同じいのち”を見ているか見ていないかの違いなのではないかとそんな気がしました。
優しい、温かい眼は自分のいのち、相手のいのちを見ることから育まれていくのだと思います。 副園長 田中
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