異年齢で群れなくなると
2013年12月26日 木曜日
『目で見る杉並区の100年』など1970年代に撮影された東京の子どもたちの写真を見ると、親の手伝いで買い物に出かけている子どもの写真が載っています。当時スーパーは無い時代でしたから、八百屋さん、魚屋さんがあって、店の人に要件を伝えてやり取りをして買い物をしていたのです。親から言われた品物が無い時もありますから、子どもなりに判断して代用品を買って帰るということをこなしていました。
ところがスーパーマーケットができると、無言で買い物ができるようになってしまったのです。喋らないで買い物ができる社会になってしまいました。近所で遊ぶ時も子どもたちは異年齢で遊びながら、発達の早い子どもから学び、発達を保障されていたのですが、現在は同年齢で遊ぶことが中心になっています。
空き地やお寺の境内などの屋外に自然に集まり、ガキ大将が異年齢子ども群を引き連れて玩具などを使わずに遊び込んでいたのです。異年齢で群れるのは当たり前のこと、これが少なくなることで、子どもの発達の連続性が保障されなくなったことが最大の課題です。葛藤・ケンカも共助などが子ども集団の中だけで体験できていました。大人は介入する必要はなかったのです。
子どもは家の中で遊んでいたのではなく、家の周りや地域で遊んでいたのです。外で子どもたちが遊びまくっていた1970年代を境に、校内暴力が増えていったのです。
親が期待する『いい子』の変容として、適度に競争心があって、要領がよくて、親の言うことをよく聞く子ども、親を困らせない子ども。親も子育ての評価を受ける立場になってしまい、子どもを責めることが生まれてきます。
Posted in 前園長(11代)須田 益朗の実践ブログ