お坊さんは死なない
2012年12月28日 金曜日
一休さん(いっきゅうさん)は臨済宗の禅僧一休宗純の愛称で、主にその生涯に様々な説話を残した事から江戸時代に説話が作られ、とんちで有名なりました。昭和の時代にはテレビアニメで人気者になりました。
興味深い一休さんの逸話「生老病死」の話を伺いました。
ある時、一休のもとへ、一人の老人がやって来ました。
「私は、もう八十になりますが、死が近づいたようで落ちつきません。もう少し長生きができるように、ご祈禱(きとう)をしていただけませんか。」
そこで一休は尋ねました。
「いったい、どのくらいまで生きたいのですか。」
その老人は答えました。「100歳までお願いできませんか。」
「あなたは欲が少ないお方だ。100歳まで生きればいいのですか。」
「いや、100歳までと定めたわけでもないのですが。もっと生きられれば、なおいいのです。」
「それなら、何歳まで生きられるように祈りましょうか。」
「それなら、すこし欲が深すぎますが、150歳までお願いします。」
「150歳でいいのですか。150歳いっても、すぐに経ってしまいますよ。あなたは80歳だといわれましたが、150年では今までの分ほどもありませんよ」
老人は、だまっていましたが、やがて、
「人間って、いつまで生きたら満足できるものでしょうか。150歳になっても、死ぬと決まると、あまりいい気持ちはいたしません。」
と言いました。一休は、
「そうです、150年なんか、夢のように過ぎてしまいます。」
と言いました。今度は、老人が質問しました。
「禅師(ぜんじ)さま、あなたは幾つまで生きるおつもりですか。」
「私たち坊主は、死なないことになっています。そういう祈禱を行っています。」
「そういう祈禱があるのですか。」
「ありますとも、釈迦如来のご説法は、すべてそれです。つまり不生(ふしょう)不滅(ふめつ)の法です。これによって私たちは、法身になるのです。そうなれば死なないのです。肉(にく)身(しん)は死にますが、法(ほっ)身(しん)は死にません。
だから釈尊は、80歳でなくなられる時も、すこしも嘆(なげ)かれなかった。かえって法身ばかりになることを喜んでおられた。この世は仮の宿です。あなたも、自分を法身にしてしまえば、生死は問題ではなくなります。」
こうして一休は、諄々(じゅんじゅん)と老人に説きました。老人は一休の弟子になって、平和に往生(おうじょう)できたというのです。
人間の寿命について改めて考えてみると、とても不思議な気がしてきます。150歳まで生きられる保障をされたとしても、149歳と364日目になったらきっと、もう少しこの世に居たいと思うのでしょう。さらには○年○月○日の○時○分○秒に確実に死を迎えることになったら、人間の精神状態はどうなってしまうのでしょうか。
では人の一生の長さはどのぐらいなのでしょう。じつは両手を1拍手する一瞬だといいます。今現在の瞬間、瞬間は長いように感じることもできますが、ふり返って見ると過去のことはあっという間に過ぎ去り、とても短かったように感じます。何百、何千年寿命があろうとも同じことなのでしょう、「今、この一瞬一瞬を大切に生きていく」ということを聖者は悟り、凡夫に伝えてくださっているのです。
Posted in 前園長(11代)須田 益朗の実践ブログ