「見守る保育」関東研修会⑤
2012年11月30日 金曜日
子ども主体・子ども中心の「見守る保育」の、ギビングツリー関東研修会に参加しました。講演会で藤森先生は、せいがの森保育園で働いている文字LDの職員について、文字LDは一般的な就学時健診でも判断されず入学することがほとんどです。読むことが苦手というLDだけなのに、周囲の人は成績が悪い子どもと勘違いしがちです。読むのが苦手だからテスト問題も時間内に解けないだけなのに、理解していな子どもになってしまうのです。たとえば欧州では運転免許試験で、文字LDの人には制限時間を長めに設定している国もあるのです。
彼は保育士になりたいという夢を持っていたので、せいがの森で保育体験しました。その日体験した内容を家に帰って彼が語り、親が代筆して記録しました。その時の日誌内容は今でも忘れられません。
「僕は園で過ごしていると疲れない、子どもと居るのはとても自然なことだから」
「今日は嬉しいことがあった、給食の時間に一生懸命真剣に食べようとしている2歳児を見て、自分も一生懸命に生きることが大切だと学んだ」
「僕は文字を読むのが苦手だから、幼い子どもが理解できる速さになる。それが子どもにとって丁度いい速さなのだと解って嬉しかった」
「園内の教材倉庫で子どもの使う教材を用意する作業を長時間したが、自分が準備している教材を子どもが使ってくれると思うと、目の前に子どもが居なくても作業は楽しく嬉しい時間だった…」
という内容です。
子どもといることが自然だと感じ、子どもの自然な姿に共感する、子どもを変えようとしないのでこちらが楽になるのです。いまだに「見守る」を誤解する人が多く、看護師は患者を見守る職業で、看護師は患者が自ら治ろうとする力を与える仕事、最終的に治すのは本人の力なのですから保育も同じです。子どもは生まれたときから成長する力を持っている、そこを大人が信じ切っていくことです。
子ども自ら発するものを育むことを「発育」という言葉で福沢諭吉はあらわしましたが、後で役人が「教育」という言葉に変えてしまったのです。子どものままでいていい権利、母親の権利は仕事を切り上げて熱が出た子どもに合えるようにできる権利、仕事があって迎えに来れないのは仕事人の権利であり、母親の権利ではありません。
人間は授乳が終わると生理が始まり妊娠できる準備が整います。親にしがみつくために赤ちゃんは手を握る、翌年に次の子どもが生まれる可能性がある、豚の生贄をささげた字が家という漢字、異年齢で共食し自己を確立し、複数家族で育てることができていたので家庭保育が成り立っていたが、現在は母子の2者関係になってしまっているので人工的にその環境を作るしかないので保育園などが必要なのです。3歳までは家庭で育てることが大切だと言われていた時代と特に都市部の状況は様変わりしているのです。(文責:園長)
八王子にある、せいがの森保育園は藤森園長先生が新宿せいがにいらっしゃる前に園長をなさっていた保育園です。7年前に杉並区公私立園長会で初めて、せいがの森保育園を見学し「目からウロコ」でした。その時、自分の中で育子園でも見守る保育を導入することを決めていたのです。見守るという考え方は実に仏教的なモノの見方、実践スタイルなのです。
文字LDの保育者のお話は、今この瞬間に自分が居る場所や環境がどんな状態であろうと「幸せを見つけて感じられる」、最も幸せな生き方です。青い鳥は遠くに探しに行くものではないようです。
Posted in 前園長(11代)須田 益朗の実践ブログ