熱帯夜など無かった東京
2012年08月13日 月曜日
育子園の地元、杉並区立和田小学校は今年開校80周年を迎えます。先日も校長先生とビデオ撮影クルーが来園されて、お祝いメッセージの収録を行いました。
杉並区も今年区制80周年、年間とおして様々なイベントが開催されます。10月13、14日の土日には区内私立保育園連盟も参加する、「杉並区80周年まつり」が桃井原っぱ公園で開催されます。私立保育園連盟は保育園関連のブースを設けて杉並区の保育を推進している様子や親子で遊べるコーナーなども予定しています。
周年関連では、『目で見る杉並区の100年 ~写真が語る激動のふるさと一世紀~』(郷土出版社)という本が発刊されたので購入しました。杉並区立郷土博物館などが中心になって編纂され、区民から古い貴重と証言が約200ページにわたって掲載されています。江戸時代に20あった村が、明治時代に4つにまとめられ、昭和7年に「東京市杉並区」が誕生しました。明治初頭の人口は1万人、現在は54万人に増加し、大正時代までは純粋な農村地帯でしたが関東大震災後に農村から住宅都市へと姿を変えていきました。
特に、昭和39年東京オリンピックを境に、町の姿は変容し、懐かしいふるさの風景は無くなってしまいました。
「関東大震災前には、品川の岸壁を出る汽船の汽笛が荻窪(杉並区)まで聞こえていた。荻窪から品川の岸壁まで、直線距離で四里内外」と『荻窪風土記』に記したのは、井伏鱒二でした。井荻村、杉並村、高井戸村、そして育子園のある地域は和田堀ノ内村と呼ばれていました。
昭和32年の法人本部周辺の写真です。現在の環状七号線から新宿方面を眺めた構図で、現在は写真中央に新宿の高層ビル群がそびえ立っています。写真には法人本部に参拝する信者さんを送り迎えする「日立観光」のボンネットバスが連なっています。当時は右左折する時はウィンカーではなく、赤い板を上下させて知らせていたボンネットバスが走っていた記憶があります。
フォークソング・かぐや姫の「神田川」で有名な神田川も杉並区内を東西に流れています。昭和16年当時の永福町周辺写真では氾濫原によってできた田んぼで作業をしている人々、昭和11年当時の写真では杉並の由来となった上高井戸の杉林は昼でも薄暗い杉林に牛を引く人の姿が写っています。
このような写真を見ていると、数百年以上前から保たれていたであろう原風景が昭和の高度成長期に一機に変貌してしまった事実が読み取れます。ヒートアイランド現象、熱帯夜などありえなかった東京、節電の夏をしのぐヒントがセピア色の写真に有りそうです。
Posted in 前園長(11代)須田 益朗の実践ブログ