スマートフォンで顧客に安心を
2011年04月12日 火曜日
救援物資の運送方法が震災の影響で難航していました。一時は職員が現地までトラックを運転して行こうかという案もありましたが、4月7日午後11時過ぎの大きな余震(宮城では震度6強)がありましたので、職員派遣を断念しました。
様々な運送会社10社に連絡しましたが、被災地域への運送という理由で話がまとまりませんでした。万策尽きたと思いながら電話した運送会社が喜んで引き受けてくれて即、営業マンが見積もりに来てくれました。
笑顔で爽やかな挨拶をかわす営業マンは入社2年目、就職氷河期の就職活動を経験した方で、約50社にアプローチして面接できたのは3社だったそうです。手には1泊旅行サイズの鞄をさげていましたが、中にはパソコン、プリンターなど営業グッズが入っていました。
見積り作業をしていると、スマートフォンで届け先保育園の前面道路の道幅をマップで確認し、6メートル道路なので大丈夫ですと答えてくれました。そのスマホは会社から支給されたものではなく、営業をする中で届け先情報をリアルタイムで確認すると顧客から安心してもらえるのではと、自費でまかなっているそうです。
保育とは話が離れ横道にそれますが、彼は四国出身で高校時代は野球部に所属していました。話をしているうちに私自身が30数年前野球中心の生活をしていた時にタイムスリップしました。特に高校の部活における先輩後輩の徒弟的制度は今思えば異常なものでした。1年生の頭は剃っていますから真っ青です。数百メートル先にいる先輩を見つけると、帽子をとって大声でどなるように「オエーース!」と挨拶をするのです、先輩は知らん顔です。そして当時部活で一番苦しかったのは、野球の練習中そのものではなく、練習中は「水」を一切飲んではいけない掟でした。
真夏の炎天下には脱水状態で、汗が出なくなりながら根性で乗り切っていました。時にはバックネット裏に溜まっていた水溜りの水を飲んだこともあるくらいです。いまの時代では到底許されない生命の危機に関係する、拷問のような掟でしたが不思議と熱中症で誰一人倒れる人間はいませんでした。
金属バットが出始めた頃で、高価なことと芯をはずしてもボールが飛んでいくので練習では竹バットを使っていました。この竹バットはスイートスポットでとらえないと手が痛くてバットを握っていられないものでした。
そんな話をすると、彼も中学生までは水を一切飲んではいけなかったことや、竹バットで芯をとらえる感覚を行っていたと話してくれました。「平成」の世になっても継承されていることもあるようです。
全国展開しているこの会社に就職できたので、地元四国に戻って四国4県を統括する立場になりたいと意気込みを語ってくれました。このように若い社員が大志をいだいて爽やかに働ける社風は大いに学ぶ点がありました。
Posted in 前園長(11代)須田 益朗の実践ブログ