『大きな木と自分』はどんな絵本?
2011年02月03日 木曜日
職員がシェル・シルヴァスタインさんの絵本、『大きな木』を紹介してくれました。
育子園でも研鑽している「見守る保育」の提唱者、藤森先生が主宰している保育環境研究所「ギビングツリー」の語源となった絵本ですが、子どもが読むのもさることながら大人がそれぞれの価値観で読むと、十人十色の受け取り方がある意味深い絵本だと思います。今回読んだのは村上春樹さんが訳したものですが、50年前にアメリカで原作が発表されてから全世界30カ国で訳されているそうです。
物語の最初は大きな木と無邪気にたわむれる少年の様子が描かれているのですが、時は流れて最後のページで少年は淋しい老人になって登場します。
この絵本の解釈は様々でしょうが一つのとらえ方として、
登場する少年(人間)はいわゆる凡夫(普通の人間)そのものといえます。自己中心・損得中心の人生(大きな木のリンゴを取りまくったり、枝や幹まで使い果す等…)で、周りの人達や地球環境のことなど考えずに自己都合を第一優先に生きている人、貧欲(とんよく、むさぼる心)を追い求める人生を送っている平凡な人、つまり「自分」です。
凡夫のむさぼる心、欲望はとどまることがありません。一つのものが手に入ると次はこれ、その次はあれと、人・物・金・情報等を次から次へと手に入れようとするのです。ところがいつまでたっても満たされることはなく、気がつけば年老いて、はかなくわびしい、「虚無」の道を歩んだ人生が絵本の最後のページの老人の姿なのでしょう。このような凡夫の生き方では、幸福は永遠に得られないことを暗示しているかのようです。また、この物語では大きな木の元へ来る時は、必ず一人だということも深い意味が隠されています。
一方、大きな木は宇宙の真理・大慈悲、この世を成り立たせている存在、形にあらわしようがないグレートな存在とでも言うのでしょうか。その大きな木は凡夫の要求(お金のためにリンゴが欲しい、遠くに行くための船をつくる木材が欲しい等…)に対してけっして、怒ったり、いじめたり、否定などせずに、ただただ凡夫をわが子のように慈しみ、見守り、幸せを願い、受入れて与えられるものは与え続けている慈母のようです。
この少年、いや全ての人間(生命)は必ず一人で生まれ(生んでいただき)一人で死んでいきます(この物語でも大きな木と対するのは一人の人間だけです、その人の人生を現しているのでしょう)。
大きな木はどうやら、永遠の存在(始まりも終わりも無い)のようです。
また、この少年以外の人間一人一人と「大きな木」との関係は一つとして同じものはありませんから、「大きな木とそれぞれの人との物語」は人類の人数分あるのでしょう。
もしも、自分の人生(過去・現在・未来)が描かれた絵本、『大きな木と○○(自分の名前)』が書店にあるとしたら、ページを開くのには、正直、かなり勇気がいります…。
Posted in 前園長(11代)須田 益朗の実践ブログ