忠臣蔵と論語には外れがない
2010年12月29日 水曜日
12月15日にある先生から次のような話を伺いました。
…中国の故事に「多岐(たき)亡羊(ぼうよう)」という話があります。「多岐」は、多くの枝道のこと。「亡羊」とは、羊を失うという意味です。逃げ出した羊を隣近所の人たちと一緒に追いかけたものの、枝道がたくさんあり、「あっちに行った」「こっちに行った」と騒いでいるうちに、羊を見失い、取り逃がしてしまったという話です。
私たちも、仕事が多くなると、肝心(かんじん)なことが分からなくなってしまうことがあります。なぜ人間はこの世に生まれてきたのかとか、何が幸せなのかという本質的なことが分からないままに、「忙しい、忙しい」と言いながら一年を過ごしてしまったのではないかという思いが致します。そのような反省も込めて、「多岐亡羊」という言葉を紹介させて頂いた次第です。
法華経によれば、私たちは皆、願生(がんしょう)――人さまの悩み、苦しみを救っていく願いを持って生まれてきたと説かれています。
皆さまもご存知のことでしょうが、昨日の十四日は、赤穂浪士(あこうろうし)の討(う)ち入りの日でした。日本では、十二月になって、忠臣蔵(ちゅうしんぐら)の芝居をすると、毎年、当たるということです。また日本人は、論語がとても好きなのだそうです。論語は、短い言葉の中に、いろいろな意味合いが説かれております。ですから日本では、赤穂浪士の忠臣蔵と論語には、外れがないとさえ言われています。
その論語の一節に、次のような言葉があります。
子(し)曰(いわ)く、天(てん)何をか言わんや。四時(しじ)行われ、百物(ひゃくぶつ)生ず。
天は、大自然と言ってもよいと思います。「天、何をか言わんや」と「や」がついていますから、天は何も言いはしない、ということでしょう。しかし「四時」、春、夏、秋、冬の四季は巡っている。そして、「百物生ず」ですから、万物は自ら成長しているではないか、という意味合いであります。
このことを、もう少し日本的に表した方がおられます。有名な二宮尊徳先生が、こういう歌を残されています。
音もなく 香(か)もなく常に 天地(あめつち)は 書かざる経を くりかえしつつ
音もない、香りもない。しかし、大自然は、常に書かざる経を繰り返して、教えてくれている、と二宮尊徳先生は詠んでおられるのです。
論語にある孔子さまの言葉、そして二宮尊徳先生の歌を味わってみますと、大自然は何も言わずに、春夏秋冬を巡らせ、また万物は自ら成長し、いわば「書かざる経」を繰り返していることを思い知ります。一方、人間は、言葉にとらわれてしまい、むしろその方が大事だと錯覚することも多いわけです。
本当に私たちは、人の言葉にとらわれたり、「お経文にこう書いてあるではないか」とか「それは間違っている」とか、いろいろなことを言いがちです。ですから、たまには、「天、何をか言わんや」という孔子さまの言葉、「書かざる経を くりかえしつつ」という二宮尊徳先生の歌なども口ずさんで、大自然の運行と申しますか、そうしたことを静かに味わってみるのも、大変大事なことではないかと思います。…
今年も年末を迎え、一年を振り返るにあたって「内省」を深めていきたいものです。
Posted in 前園長(11代)須田 益朗の実践ブログ